「○○沼」というスラング

  ○○沼というスラングよく見ますよね。これを見てるとなんだか昔銀魂のノリを真似ていた方々を思い出してなんだかノスタルジックになるのですが。

 あと男性の方でこの沼という単語を使う方はまず見かけないですね。そこらも含めて銀魂ノリと同じく女性が使うスラングって感じですかね。

 で、僕この「沼」というスラングがあまり好きじゃないんですね。これは完全に悪意にまみれた偏見なんですが、「沼」をつかって表向きは自虐感を演出しつつも、ある種のオタクであることをステイタスとして誇っているように見えるんですよ。自覚したマイノリティが嫌な方向に自己顕示として発現してるなとか思っちゃう。

 

 ここから先の話は沼とは関係ないんですけど。

 オタクであることを誇るってのが昔から嫌いなんですよ。リアルでもたまにいるじゃないですか「自分オタクなんすよw」って軽いノリで言っちゃうような奴。お前よくそんなん言えるなと、社会的自殺じゃん、魔女狩り希望者?

 

 こういう奴は大抵げんしけんオーラを身に纏ってる。げんしけんオーラってのはその名の通りげんしけんみたいな華やかな生活を送ってそうなオーラです。

 僕げんしけんも嫌いなんだよ。つーか、オタク系青春みたいなのが嫌い。何が青い春じゃ、オタクが送るのは黒い冬だろ。

 オタクってのは本来、陽の当たらない地下で息を潜めて数人の仲間と互いに若干の同族嫌悪を含みながらも秘密結社みないな活動してる奴じゃないのか。

 

 でも現実はオタクってのがもう市民権を得て受け入れられてるじゃないですか。別にオタクってことがバレても虐められるような世の中じゃないんですよね。それも分かってるんですよ。

 僕がここまで書いてきた駄文は結局のところ、昔と今のオタクという言葉の中身のギャップを埋めきれないでいるオールドタイプによる負け犬の遠吠えなんですよ。

 

 僕は自分の中のオタクという言葉を更新したい。でもきっと自分の力では無理だろう。何故なら僕は旧世代のオタクに魂を引かれたオールドタイプだから。

 だからいつか優しく「オタクって公言してもいいんだよ。オタクは恥ずかしくないんだよ」と僕をニュータイプに引き上げてくれるシャアみたいな人が現れるといいなと思っている。

 そして願わくばげんしけんの世界に生きるのだ。

 

セルフツッコミとかいう甘えた文化を許すな←

 皆さんご存知であろう文末に矢印を使ったセルフツッコミ。

 ただ知らない人もいるかもしれないので説明すると、ある一文にボケを入れた場合、そのボケの文末に左矢印を付けることでセルフツッコミが成立するというものである。

 知らなかった人。恥ずかしくないよ。僕も二年前までは機種依存文字だと思っていたからね。

 

 はっきり言って僕はこの文化が嫌いである。

 相手が会話中にボケたと思ったらこちらにツッコミをさせる間もなくセルフで既にツッコんでいる。

 ピッチャーが自分で投げたボールを自分で打ち返してる様なものだ。

 バッターは眼前に広がる嵐のような光景に只々口を開けて立ち尽くすのみである。

 

 矢印を機種依存文字だと思い込んでいたかつての僕は、既にセルフでツッコミ終えているボケに追撃で要らぬツッコミをしていた。

 今思うと二度手間だったし、相手は何だコイツと思っていたかもしれない。

 

 でも、こんなことをされてどうすれば良いのだ。一体次にどんな言葉を発すれば良いのだ。

 僕も相手に合わせてセルフツッコミをすればいいのだろうか。だが、そうなった場合そこには会話など存在しない。そこにあるのはたまたま内容が噛み合っている様に見える2つの独り言だ。

 

 ここから先は完全に悪口だが、矢印を用いたセルフツッコミを使う人間で面白かった奴を見たことがない。セルフツッコミなんてものを使う奴は元々面白い人間でも無いのにボケを拾われずにスベってしまうことを極端に恐れるチキン野郎である。

 

ちょっとボケを外してスベることがなんだ。次はもう少し間口の広いボケにすればいいじゃない。そもそもツッコミすらされない距離感ならば相手が気軽にツッコめる様に程良い隙を出していけばいいじゃない。

 スベるのが怖いから、相手を信頼出来ないから、ボケても光の速さで自ら処理をする。そんなのって哀しいことじゃない。

 

 僕は持てる力の限りを尽くしてボケを拾うから。

 だから、セルフツッコミなんてするなよ。矢印なんて使うなよ。

 君をひとりぼっちなんかにはさせないよ!

財布出しとけよ

 僕が日常イラっとすることの第一位がこれである。

 レジ待ちの列にいる間はボケっと突っ立ているのみで、自分の会計の番になってからバッグの中から財布を探し出す。やっとのこと財布を出したと思ったら小銭入れを探し出す奴までいる。

 ちなみにその後ポイントカードを探しだす奴もいる。こいつはイラッとでは済まない。万死に値する。

 

 列で待っている間に財布を出しておく。こんなにも簡単な行為を何故しないのか。お前が財布探してる内にまた列に人が増えてるじゃないか。今まで何をやってたんだ?脳みそ溶けてるのか?

 しかもこういう奴の場合、大抵やっとこさ会計が終わったと思ったらご丁寧にレジで財布を鞄にしまいやがる。しかも長い。きっと鞄の中に財布のスタンダードポジションがあるのだろう。後でやれ。さっさと商品を持って立ち去れ。また列に人が増えてるじゃないか。

 

 実は僕がイライラするのを知っていてわざとやっているんじゃないのか。それぐらいしか財布を出さない理由が見当たらない。

 

 もしかして改札通った直後に発車案内板を見上げて改札を塞ぐアイツも、個室トイレで鍵をかけてるのにドアをガタガタして無理やり開けようとしてくるアイツも、エスカレーターに二人並んで行く手を塞ぎ電車に乗り遅れさせるアイツらも。

 

 皆わざとやってるのか?

 わざと僕にストレスを与えようとしているのか?

 ストレスを与えてどうするつもりなんだ。ストレスによって肥大化した肝臓を美味しくソテーするつもりじゃないだろうな。

 

 きっと僕は美味しいだろう。この憎き狂ったカニバリズム共によってストレスフルな生活を余儀なくされているのだから。

 

 身を守ろうにも敵が多過ぎる。

 シーシェパードの皆さん、どうか鹿くじらの保護をお願いします。

臭くなるのが怖い

 要するに加齢が怖い。つまりおじさんになるのが怖い。

 

 偶に電車でとてつもない異臭を放っているおじさんがいる。新手のバイオテロの可能性を疑うレベルの。ただその異臭の正体は主に加齢臭であり、個人差はあれど男性は歳を重ねていけばいずれはそれを発してしまうのだ 。

 

 恐ろしい。正直言って死ぬことよりも恐ろしく感じる。死は人にとって一つの救済でもあるが、加齢臭は人を地獄に叩き落とすのみだ。

 

 そもそも加齢臭を発することによって周りの人にも迷惑をかけるのが嫌だ。加齢臭を発している本人も嫌だし、同じ空間を過ごす周りの人も嫌な思いをする。登場人物全員嫌な思いをするのだ。こんな悲しい物語も無い。

 

 それに加齢臭が出てくるのが40歳前後っていうのが納得いかない。

 早くないか。平均寿命はどんどん伸びているんだぞ。伸びた寿命に比例して加齢臭の発症時期が遅くなるならまだ許せるけどそういう訳じゃないらしいじゃないか。

 つまり寿命が伸びるってことは人の異臭を放つ期間がどんどん伸びてるってことだ。何この生き地獄。

 

 ネットで加齢臭のことを調べると対策とか予防の仕方が山ほど出てくる。

 しかし対策とか予防は出来るけど根絶する薬や方法は無いらしい。人類は無力。ハゲを治す薬と同じレベルでの早期の開発が待たれる。

 

 僕が加齢臭を発するようになるまでに解決してなかったらどうしよう。

 自分が臭くなるなんて想像したくもないけど、きっとそれまで着てた服を全て燃やして、風呂場で薄皮一枚剥がれるほど背中を擦って、浴槽一杯に無数の詰替用ファブリーズを注いで、頭のてっぺんまで浸かって肺が無呼吸の許す限り目一杯ファブ浴をするだろう。

 

 そんな未来はイヤである

僕のノスタルジアインターネット

 Yahoo!チャットって場所があったんだよという記事がある。

 

anond.hatelabo.jp

 筆者の古き良きインターネットを懐かしむ偉大な名文である。僕はYahoo!チャットを知らない。けれども懐かしむインターネットはある。

 

 みんな人それぞれ古き良きインターネットがあると思う。僕の個人的古き良インターネットは2009年頃までの2ちゃんねるだと思う。

 死ぬほどくだらないクソスレから信じられないほど大掛かりな釣りスレまで乱立していた。

 釣り神様とか凄かったな。知らない人は検索してみて欲しい。

 "本当に危ない所を見つけてしまった"とかスネークがいっぱいいた。今やスネークという単語すら懐かしい。最近見ないなスネーク。意味がわからない人はググってほしい。

 今と比べたらインターネットのプロレス的文化を楽しめていた時代だったと思う。

 2ちゃん系まとめブログも今ほど広く知られていなくて、結局は同じ2ちゃん住人たちが見てる頃が楽しかった。

 

 

 Twitterも時期的に言うと日本語ハッシュタグの実装前後が結構楽しかった。

 Twitterってmixiと違ってそれまで全く関係無かったコミュニティの人達とか、それまでネットに触れてこなかった中高生とかに情報が共有される感じが面白かったんだよね。だから2ちゃんの古いコピペがさも新鮮なネタの如く何千リツイートされてるのも奇妙で面白かったな。

 当時のフォロワーの一人が「Twitterはインターネットをやり直している」ってツイートしてたのが印象的で忘れられない。

 

 

 今はどうだろうな。

 さっきは情報が共有されるのが楽しかったって書いたけど、ネットスラングとか今はあっという間に一般化されるし、住み分け機能が失われてる気がする。

 特定のコミュニティでのみ通じる、ある種の暗号的な部分がスラングの楽しさだと思うのにネット・現実を問わず至る所で暗号的側面が失われ、一般化されたネットスラングを見るのは少し寂しい。

 書いてて思ったことだけど、きっとTwitterも情報が共有されきる手前のカオス状態を楽しんでいたんだろう。

 

 

 結局のところ僕は情報が共有される前の、まだ内輪ノリの強かったインターネットが好きだったんだと思う。

 きっと、僕の好きだったインターネットは帰ってこない。

 そして、気づいていないだけで今この瞬間のインターネットにも5年後、10年後に振り返ると懐かしくて、愛すべきところがあるんだと思う。

 

 それではみなさん、良いインターネットを。

田井中律は俺の嫁

 

 二次嫁、二次元のお嫁さん。平面にしか存在していない女性を娶る。オタク共の間で古来より使われてきた言葉である。

 僕の二次嫁はタイトルの通りけいおん!田井中律ちゃんである。既に放送が終了して何年も経っているがその愛が尽きることは無い。

 

 ただ、ネットに全身どっぷりと入り浸っていると忘れがちだが、この言葉は相当に気持ちが悪い。

 

「○○は俺の嫁

 

 こんな事をお外でところ構わず公言する奴は基本的にいないだろう。いたとしたらそいつはとんだクレイジー野郎である。人は他者から気持ち悪がられることを恐れるはずである。

 

 二次嫁なんて言葉を使わなければいいんじゃないかというとそんな事もない。好きなアニメキャラクターを公言することは、二次嫁を紹介することと大差無い。 

 

 ところが好きな女性芸能人を公言する、となると途端にハードルが下がる。気持ち悪さが無くなる。それどころか異性、同性を問わず初期質問のテンプレ級にまで格が上がる。

 

 何故だ。

 現実に存在し、生命活動を行っているからなのか。

 

 ちなみに僕は長澤まさみさんが大好きである。あるSNSのアイコンは長澤まさみだし、PCのデスクトップも長澤まさみである。

 彼女は様々な媒体で見ることが出来る。テレビ、映画、雑誌、写真集、ネットetc…

 

 だが僕は長澤まさみを直にこの目で見たことが無い。三次元の、生身の彼女をこの両の目で見た事が無いのだ。テレビ、映画、雑誌、写真集、これらは全て平面、二次元である。

 そう、二次元の長澤まさみしか見たことが無いのだ。

 

 つまり、僕からすれば長澤まさみとは、二次元にしか存在しない一種のキャラクターなのである。アニメのキャラクターとなんら変わりないのだ。

 

 長澤まさみがアニメのキャラクターと同じということは発する言葉は決まっている。

 

 

長澤まさみ俺の嫁

日常生活におけるボケとツッコミのお話

 人間は他者とのコミュニケーションにおいてボケとツッコミを意識的、無意識的を問わず行っている。特に異論は無いと思う。ただ、ボケてツッコむだけのキャッチボールなのだけれど、一部の人には結構重大な問題が存在していると僕は思っている。


 その問題とはボケとツッコミの根幹を成す個人のキャラクターのことである。
キャラ漫才というものがある。(基本的には)ボケが奇天烈なキャラクターを演じていて、そのキャラに則ったボケを展開していくというものである。


 そして、このキャラとボケがズレていては笑いを生み出すことが出来ない。これが日常のボケ・ツッコミにも当てはまると思う。キモオタの成りをした奴がウェイ的人間のボケやツッコミをした所で只々引かれるだけなのである。

 つまり、笑いを生み出すにはその人のキャラクターに合ったボケとツッコミ、所謂芸風の獲得が必要なのだ。


 そうして獲得した先には最重要問題が待っている。芸風の汎用性である。

 せっかく獲得した笑いを生み出せるボケ・ツッコミも汎用性が無ければ他者とのコミュニケーションの役には立たないのだ。


 僕は高校時代におおよその芸風が固まったが、それは内輪でしか通用しない粗悪品であった。よく親しくない人から言われるのが、ツッコミが冷たい、怖い、キツイ等である。僕はこれ以上無くファニーかつ、ユーモラスにツッコんでいるつもりだが他者にはそう受け取られていないのである。
 

 ではどうすれば良いのか?汎用性を獲得するために芸風を変えるしかない。ウェイ的人間の芸風を僕のキャラクターバランスが崩れない程度に取り入れるしかないのだ。
 僕自身明らかに無理をしているし、気恥ずかしさもある。ウェイ的芸風を取れ入れた僕を僕の中のリトル鹿くじらが嘲笑っている。


 自分で生み出したギャップに自我が押し潰されそうだ。どうか一つの単語だけでコミュニケーションさせてくれ。